四の章  
北颪 きたおろし (お侍 extra)
 



     風 花




 癒しの里では宵も更け、どのお座敷でも宴もたけなわ。ちょいと羽目を外し過ぎた殿方たちが声を荒げるような、無粋で乱暴な気配も、今宵は今のところ立たぬようであり。座敷を巡る廻廊の向こう、瀟洒な中庭へと向いた匂欄の上を、気の早い蛍の緑色の光がふわふわと泳ぐのが何とも幻想的な中。互いの身を間近までへと、引き寄せ合っての寄り添い合って。宙を舞う翡翠の光を眺めての、甘く秘やかな語らいに、柔らかに微笑い合う幸せそうな方々のお部屋、御用はありませぬかとさりげなくも伺って来た仲居の一人が、
「あれ、女将さん?」
 通りかかった帳場で、火は入れていなかろう長火鉢の前に座していた雪乃へと気づいて、意外そうに声をかける。今日は主人夫婦への個人的な、特別のお客様がお見えだってことくらい、通いの者も含めて店中の人間が知っている。だってのに、
「離れのお客様のお世話は良いんですか?」
 女将であり、そのお客様とはお身内同然に親しい間柄でもある雪乃が、なのにお相手をしないなんてと、まだまだ新米な彼女には不思議に思えたらしかったが、
「いいんだよ、だってアテられるばっかだし。」
 嬋
(あで)な笑顔でのやんわりと、目元を細めて言い返す女将の言い回しに、
「あ…と、そうですねぇ。/////////
 娘がハッとしてしまったは。今更、あのお客人たちの有り様、雰囲気を思い起こしたからであり。精悍で重厚、いかにも男臭くて体躯もいいところへ、重苦しいまではしない知慧の渋みのほどよく滲んだ、懐ろの尋も深そうな落ち着き払った壮年様と。至って寡黙だが、それが相応しいまでの凍るような迫力ある美しさをたたえた、それはそれは洗練された所作も麗しい、金髪痩躯の若衆と。親子ほどは開きがあるかもという年の差さえ、妖冶で罪深い香にすり替えての艶やかに。いかにも絵になる二人連れ。今の時代にあっては、別に…衆道関係にあることを何かしらの罪悪めいた想いから秘する傾向も薄まっているのだしとか何とか。彼女なりの先回りにて、そんな解釈をした上で。とはいえ、さすがに…ちょいと生々しいことでもあって、ついつい頬を染めての含羞む娘御だったりしたのへと、
「バカだねぇ、女将さんが遠慮なさっているのは、旦那様と久蔵様へだよ。」
 やはり通りすがっての二人のやり取りを聞いていた、年嵩な別の仲居がそんな口を挟んでくる。
「え?」
 旦那様と?と、いきなりの乱入要素が意外すぎ、話がすっかりと見えなくなったらしい娘っこに構わず、
「まるで本当の親子みたいに、そりゃあ仲睦まじい方々ですものねぇ。」
 そうだと強烈に思い当たる何かしら、思い起こした彼女なのだろう。うっとりと夢見るような面持ちとなり、

 「3年前のあのときも。
  旦那様がお倒れになったのを運んでの、血相変えてのこちらへいらした時だって、
  久蔵様は旦那様の手をしっかと握ってのお離しにならなくて…。」

 その時の真摯なお顔の切なさ麗しさの、何ともまあまあ凄絶で凄艶だったこと。どこぞの芝居
(こや)の、素晴らしくも麗しい二枚目同士の泣かせの場面でも、ああも決まりはしなかったろうし、周りをああまで貰い泣きさせはしなかったろうと、その身を振り絞るようにする仲居頭の身悶えようにこそ、
「いやだよぅ、お浜さん。」
 そんなあられもない声を出したりして。ご亭主の留さんが板場からすっ飛んでくるよと、からかい半分に窘めた雪乃ではあったけれど、

 “…そうなんだよねぇ。”

 金髪白面。玻璃玉のような眸…という、言葉にしての並べると同じ素養の綺羅らかさを同じようにまといし方々で。だというのに、実際に同座なされしところを見やれば、こうまでの正逆はないというほどに。片やからは淡くも柔らかで、暖かく優しい雰囲気がその笑顔から滲み出して来るような、そしてもう片やは、やはり淡雪のように色白な存在でありながら、だっていうのに氷のような鋭角の印象が拭えぬという、
“似ても似つかぬ二人だっていうのにねぇ。”
 表情硬く、寡黙でその上、妙に…その年齢にはそぐわないほどの威容があって。雪乃でさえ、少々近寄り難いと思えるところの多かりしなお人だった久蔵様だが。七郎次の前にいるときだけは別。大人しやかなことを差して“借りて来た猫”という言い回しがあるけれど、その切れ長な紅の眸を潤ませて、まじっと七郎次の青い瞳を見やるときなんざ、
“大好きなおっ母様のお膝に擦り寄ること、無理からお預けされてる小さな小さな仔猫みたいなお顔になってらしたほどだものねぇ。”
 殊に、今この仲居頭のお浜が口にした、あの当時の彼の様子と言ったらもうもう。

 “…あ、いやだよう。////////

 今でも思い起こすと、こちらの胸の奥が“きゅうぅん”と切なくも振り絞られるほどに。それはそれは真摯で懸命だった彼だったから。あんな大したお方にあんなお顔をさせるほど懐かれるとは、

 “我が夫ながら、恐ろしい色男だよねぇ。”

 ほうと甘露な吐息をついて、妙な感嘆に耽っていなさるが………おいおい、雪乃さんったら。
(苦笑)






  ◇  ◇  ◇



 神無村での彼らの寝起きの場であった、古農家の囲炉裏端の上がり框の縁に居て。何の前触れもなくの突然、頽れ落ちるように倒れてしまった七郎次。慌てた久蔵が、それでも片腕のままで受け止めて、態勢を安定させるべく懐ろへと抱き寄せると、
「あ…。」
 肩へとすがられた手のひらや、間近になった苦しげなお顔のその中、額や頬と吐息の熱さとから。ただならぬほどひどい熱を出している彼であることが知れ、
「どうされた。」
 久蔵が放った、彼には珍しい大声が真っ先に届いたのだろう。いち早く駆けつけてくれた隣家の五郎兵衛に、懐ろごと容体を見せれば、大振りの手のひらを白い額へとあてがった彼もまた、おおと驚いた様子で眉をひそめた。そして、
「久蔵殿は勘兵衛殿を呼んで来なされ。」
 頼もしい双腕をこちらの片腕だけでの支えの中へ深々と、すべり込ませてくれたので。此処はがっしり安定の良い彼の腕へと大切な母上は任せての、大きく頷いた双刀使い殿。名残り惜しげに白いお顔を見やったのも刹那のこと、機敏に背を向けての外へと飛び出すと。日頃の壮年殿の哨戒のコースを見定めて、これまでの最速ではないかという瞬発力からその身を宙へと溶かし込み、あっと言う間に風になる。一方で、
「…どら。ちょっと我慢だぞ、シチさんよ。」
 五郎兵衛の方もまた、機敏な身ごなしにて板の間へ上がると、一旦七郎次のその身をそぉっと板張りの上へ横たえさせて。勝手知ったる隣りの居室へ足を運んでの衾を整え、力の入らぬ腕を床に突いての、自力で身を起こそうとしていた槍使い殿のところまで戻ると。その心掛けは買いたいが今は御免と、ひょいっと再び、軽々抱え上げてしまって、多めに重ねた衾へと、その長身を横たえ直してやる。そのまま傍らへと腰を下ろし、顎まで引き上げた掛け布の襟元なぞを直してやれば、
「…ゴロさん。」
 意識はまだあっての、声を掛けて来る七郎次であり、
「どうされた? ただの立ち眩みにしては熱が物凄いが。」
 呼吸も荒い。頬に上った血の色も、日頃が真白なだけに鮮やかさが過ぎ、何ぞ恐ろしい病いだろかと危ぶみたくもなろうほど。ほんのさっきまで、少なくとも午前中は何ともなかった、平八に叱咤の怒号を浴びせられたほど身も心もお元気な彼だったのに。
「…アタシにも何が何やら。」
 ヘイさんに偉そうにしたんで罰が当たったんでしょうかねなんて、心配を掛けまいとしてか、冗談ごとに済まそうという言い方をしたものの。笑いかかったお顔にも声にも力がない。そこへ、
「シチっ!」
 久蔵の声が飛び込んで来たので、肩越しに背後の板の間へと眸を遣り、駆け込んで来る彼へとの気遣い、座したままにて身を譲ってやれば。そんな五郎兵衛のすぐ隣りへと、風のように飛び込んで来た、今は青い装束の久蔵が…打って変わっての音もなく、膝を落としての座ってそれから、
「…。」
 床へはたりと手をついて、横になっている七郎次を覗き込む。何があったのか、どんな異変が彼を襲ったのかを見極めたいのだろうけれど、
「…久蔵殿?」
 熱に浮かされたお顔の七郎次の方が、彼を案じるような声を出すほどに。思い詰めばかりが先走っている久蔵であるらしく。何も判らぬ自分への悔しさでか、眉を寄せての“くう”と苦しげに息をつくと。それでも…こちらは吊らずに自由になっている左手を伸ばして、七郎次の頭の下へとすべり込ませ。元結いを引き、結っていた髪をほどいてやった辺りが、さすがというところかと。そこへと、次に訪のうた声は、

 「…七郎次。」

 大慌ての久蔵から、シチがとだけ切迫した声で言われての引き返して来たらしい勘兵衛が。やはり…この彼にしてはこれまでになくの深刻そうな表情になって、熱でお顔を赤く浮かせた古女房を見下ろすばかり。それでも衾の縁を大きく周り込むだけの余裕はあったか、五郎兵衛や久蔵とは反対側の傍らへと足を運んでの腰を下ろして、

 「いかがした。」

 やはり本人へと訊くのも仕方のないこと。くどいようだが、ほんのさっきまで、平生となんら変わることのないままのお元気に振る舞っていた彼なだけに。もしやして心当たりがあっての、だが、心配を掛けたくはなくて隠していたのやもと、最も無難で最も七郎次らしいところに気づいての、そんなお声を掛けた勘兵衛殿であったらしいが、

 「それが、判らないのです。」

 今回ばかりはそのような、隠しごとやら我慢やらがあっての代物ではないようで。
「急に悪寒がして、そうと思った次にはもう目眩がして。ああそうだ、熱があったのへは久蔵殿の方が先に気づいたくらいでしたし。」
 一気に発病したのかそれとも、あまりにじわじわとした進行だったから気がつけなかったか。意識はあっての受け答えが出来るのも、病状がさほどには重くはないからというよりも、気丈な彼のことだから、それもまた大層な無理をしてのことではないかと、皆へと思わせて止まず。そんな中、
「素人がああだこうだと言っていても始まりませぬな。」
 すっくと立ち上がったは五郎兵衛殿で、
「隣村までひとっ走りして医師殿を呼んで参ろう。」
 久蔵や平八の容体を診てくれている外科医師殿は、虹雅渓に在住の身、そうそう簡単には招けぬが。隣村におわす医師殿も、ここいら近隣の民すべてから頼られているほどに、なかなか大した腕のお方なので。とりあえずの初診だけでもと思い立った五郎兵衛だったらしく、
「運搬船を駆ってゆくので、すぐにでも。」
 言いながらのもう、軒から出ている機敏なところは、さすが元軍人というところか。それを見送っていた勘兵衛が次には立ち上がり、どうしたかと久蔵が視線をやれば、
「平八にな、五郎兵衛が出掛けた旨を伝えておこうと思うて。」
 言いながら見下ろした枕の上では、七郎次が目を見張っており、そんなお顔がすぐにも…感慨深げな、されど安堵に満ちた顔になってゆく。今朝の今だけに、平八にはあまり不安な要素を与えたくはないと、七郎次もまた思っていたこと。選りにも選ってこのお人が察してくれようとはと。それもまた感に堪えるほどもの事実であったらしくって。
「お願いしますね、勘兵衛様。」
「ああ。」
 案ずるなということか、短い応じだけを残しての、ささと出てゆく彼を見送り、
「…。」
 細かいところに気が回った勘兵衛であることが、彼にもまた不審ではあったらしいけれど。そんなことよりと素早く切り替え、ああそうだと立ち上がり、土間へ降りての桶へ水を汲みに行った久蔵であり。
“…。”
 甘えるばかりという訳ではないけれど、まだまだ人の世話になど気が回らぬだろうと思っていた彼までも。きちんと卒なく動いての、手拭いを絞って額を拭ってくださるのへと、七郎次としては“何だか申し訳ありませんね”と気後れするばかり。枕に当たろうからと髪を解いてくれた機転といい、何か足りぬものはないかと、真摯に覗き込んでくれている懸命さといい。これほどのお人がと思えば、何と贅沢な慈しみであろうかと、それだけで身が暖まる母上だったそうでもあるが。





 小半時もかからず、五郎兵衛が連れて来た隣村の医師殿が見立てたによれば。

  「これは…義手から染み出たものからの障りだなも。」

 まずはの触診にと衣紋の合わせをはだけさせた折、腕が痛む、若しくは重いという所作を見せたのでと、そちらを先に診たところ。義手をつけている側の、腕に間近い肩や腕の付け根の脇などが、膨れ上がるほど腫れているし、触れると眉が寄るほどに痛みが走るらしく。
「外からは判らぬ接合部位に、微妙な傷が出来たか、それか酸化腐食、つまりはサビが出来つまったか。」
 そういうことが滅多に起こらぬようにという処理はそれなり為されてあるが、一般生活を営むだけな身への等級のそれでしかないとしたらば。
「随分と長く使っておいでに見えるが、ここ最近、殊に無理をしたとか過重を掛けたとかいう、常ではないことへの心当たりはありなさらんかの?」
 そうと訊かれて誰もが思い当たるのが、あの凄絶だった戦さであり。
「思わぬ負荷で出来た傷みなりから、生身の体が弱ってもいての相乗効果、そいでこうまでの症状になった…というところ、やき思うがの。」
 抱えて来た包みから、小瓶を取り出し、小さな磁器の皿へと中の液体を少しばかり移し入れ。それからこちらは、銀製の横長の小箱から、細身の手術用の小柄
(こづか)を取り出して、
「ちぃと痛むが御免。」
 ちょいと、七郎次の耳朶に先を当て、ほんの針先で突いたほどの傷をつけ、そこから血を少しほど掬い取る。それを皿へと落としたは、試薬で何やら調べるためだったらしく、
「やはりの。金属への抵抗で、白血球が増えての炎症を起こしとるだで。」
 それへの反応による発熱であり、突然というのは弱ってらしたか、若しくは何かしらの緊張がほどけて気が抜けたものか。そんな隙を衝かれての、高熱を発しなさったのじゃろと。そこまでの見立てをつけては下さったものの、
「儂が診て差し上げられるのは此処までじゃ。」
 申し訳ないと肩を落とされる。というのが、
「金属の種類が判り申さん。鉄や銅、錫あたりならば、抗生物質も何とか用意があるのじゃが。」
 触れただけでも判ること。今時の軽くて丈夫な特殊な金属、特殊な接合をなされとる義手らしいから。容易に決めつけての薬を勝手に投与する訳にもいかんと。潔く、ここからはお手上げだとの弁を告げられた。きっと…先だっての騒動のおり、凄まじい負傷者らを前にして、医師でありながらも手をつかねてしまったこと、思い出されてしまったものか、随分としゅんとなさってしまわれたけれど、

 「…ありがとうございます。」

 選りにも選って。衾に横たえられた病人が真っ先にお礼を述べた。すぐにも命を摘み取らんというほど、切迫した病状ではないけれど。それでも苦しい筈の高熱をおして、何とか微笑って見せており。そんな彼の向こう側、四角く座っての診察を見守っていた蓬髪の壮年殿も、うむと頷き、
「医師殿には失礼な言いようにもなろうことだが、これで次の手が打てるというもの。」
 ただおろおろしているばかりで心許ない限りであったところへの、光明を与えて下さったのだ。感謝致しますと、頭を下げて見せるに至り、
「いえ、あの…。」
 滅相もございませぬと、医師殿もまた恐縮するばかり。とりあえずの頓服にと、熱さましを差し出したそんな彼へ、在所まで送りますと銀髪大柄な壮年がどうぞと促し、さて。
「…。」
 彼らの足音の遠のきを数えていたような間合いまで、伏し目がちになっての壁際で控えていたものが。打って変わっての不意に立ち上がったのが久蔵で。
「…どうするつもりだ?」
「知れたこと。」
 この負傷を負ってからというもの、外しての部屋の隅へと立ててあった双刀を背へと負い、腰に回したベルトも片手で器用にパチリと止めてしまうと、

 「虹雅渓まで行って来る。」

 自分や平八を診ている医師なら、七郎次の病状にも対応出来ようと踏んだ彼なのだろうが、
「呼んで来るより、平八の作ったという電信とやらで招いた方が早かろう。」
 第一、その腕でそんな遠出が出来るのかと。右の腕はまだ吊り下げている身の彼へ、視線だけでの問いかければ、
「運搬船の操作くらい、片腕でもこなせる。」
 元はあの斬艦刀に乗っていた身。操縦が出来ることは、勘兵衛や七郎次もあの修羅場へ突入して来た彼だったことから知ってはいたが、それとこれとを一緒にしていいものか。それへの判断にと眉を寄せかけている勘兵衛へと重ねて言ったのが、

  「俺だけがゆくのではない。シチを連れてゆく。」
  「な…っ。」

 これへはさすがに、勘兵衛も勢いよく顔を上げての驚きをあらわにし、
「そんな無茶が通ると…。」
「この熱だ、一刻をも争おう。」
 久蔵の表情は変わらない。いやさ、日頃の無表情に加えての頑迷さがいや増しており、七郎次には、
“ああこれは、どうあっても譲らないな。”
 そんなレベルだというのが判ったらしく、だが、
「では儂が…。」
 いくら何でも、完治してはいない者へ任せられぬと勘兵衛が言い出せば、その言を途中で遮ったのが、

  「なりません。」

 他でもない七郎次だ。
「シチ。」
 お主が口出しすることではとか何だとか、言い出す暇さえ与えずの威勢のままに、
「勘兵衛様はまだ、虹雅渓へ出向いてはなりませぬ。」
 苦しそうな息の下から、それでもくっきりと言い放つ。先に偵察にと出向いた折にも、勘兵衛があの街へ出向くことだけはまかりならぬと言い張った彼であり、
「まだまだ勘兵衛様のこと、獄門刑に処せられかけた侍だと印象深く覚えている人は多いのですよ?」
 万が一にも間違いがあってはならぬと言わんばかり、七郎次が苦しげに声を張るので、
「…ならば、五郎兵衛に頼もう。」
 代案を立てたところが、
「それは、ダメだ。」
 これまた、今度は久蔵が言い切って。
「何故。」
「平八が困る。」
 おやと。この即答へは、勘兵衛のみならず七郎次も内心でギョッとしかかったものの。何も今朝方の修羅場を彼なりに察していた久蔵だというのではないらしく、
「五郎兵衛は平八に欠かせぬ連れ合いだから。」
 先程 隣家を訪のうた折に、仲睦まじい彼らの雰囲気を嗅いだせいでの発言であり、

  “…久蔵殿、連れ合いという言葉の意味、判ってられますか?”

 訊いてみたかったが、ああいけない。熱が邪魔していよいよ目が回ると、深い吐息を一つついたおっ母様、

  「久蔵殿にお任せしても、よろしいのではありませぬか?」

 胸元に腕を組んだまま、渋いお顔を崩さない勘兵衛へ、七郎次本人がそうとの口添えをするに至ったのは。
「但し、ヘイさんに言って、虹雅渓の正宗殿へ電信で知らせてもらってほしいのです。」

 ――― これこういう事情で神無村を出たから、
      そちらからも至急、医師殿を連れてのこちらへ向かって来てほしいと。

「…成程。」
 医師殿を捕まえるのに時間が多少掛かったとしても、1日丸まる掛かるとは思えない。よって、双方から向かうという格好を取ったなら、途中で落ち合うという形となるので、ただこちらから向かうより、向こうから来てもらうより、断然早く診てもらえよう。
「案じていても詮無い。久蔵、用意にかかれ。」
 途中で向こうから来るものと鉢合わせたとして、そこから戻って来るのを足してもやはり1日以上はかかる道程。風防用の防寒着や毛布、水分補給用の水筒、簡易食などという準備が要る。
「儂は橋向こうで五郎兵衛を待ち受ける。」
 今さっき出てったばかりの五郎兵衛が、医師殿を送っての戻って来るのを捕まえて、そのまま運搬船の燃料や何やの点検に掛からねばならぬからと、立ち上がった勘兵衛に久蔵も頷いての準備に掛かり。隣家で独り、状況が判らぬままハラハラとしつつ待っていた平八も、翼岩まで出向く途中の勘兵衛からコトの次第を聞いての了解の意を示し、早速電信の操作を始めて………さて。





          ◇



 一応、村から二人もの侍が離れるとあって、不安のなきよう、はたまた誤解のなきようにと長老のギサク殿へと事情を説明したところ、居合わせていたキララが握り飯の包みと湯冷ましを詰めた竹筒を何本も準備し、シノと二人で橋向こうまで持って来てくれて。
『熱が出ておられるのですから、汗をかいての沢山の水が失われているはずです。』
 どうか小まめに休まれて、お水を取らせてあげてくださいませねとの念を押せば、
『…忝ない。』
 切羽詰まっていても、心くばりを下さった相手へ邪険な応対はしないだけの心得はあって。片手だけを操縦用のハンドルにかけ、深々と頷いた久蔵の背後では、転げ落ちないで横になっておれるよう、五郎兵衛が座席に取り付けたベルトにて、どんな壊れ物でもこうまで大切厳重に守られはすまいというほど、緩衝材をたっぷりと敷き詰めたその中へ、七郎次が毛布ごと固定されていたりし。
『では。』
 何とも素っ気ない、短い一言だけを残しての出立を果たしたのが、慌ただしい準備をそれでも最短で整えての昼下がりのことであり。何もない平坦な荒野を磁針の針だけを頼りに、それでもさすがは、何もないことでは引けを取らない大空を制覇したこちらも元軍人。案じたほどの恐れることもないままの安定した操縦にて、ホバー式の機体をようよう操っての道行きが始まって。キララからの言伝てを守ってのこと、律義すぎるほどのまめまめしさで、1時間おきに停車しては水を飲ませ、容体は悪化してはいないか苦しくはないかと様子を見てくれる久蔵の気配りの細やかさには。失礼ながら意外ささえ覚えた七郎次ではああったものの。さすがに…決して弱くはない風が吹きつけ吹きさらす中に身を置いて、長々と揺られ続ける旅程は、思っていた以上に弱っていた身体へも響くものなようで。眠るというより疲労に間近い苦痛に耐え兼ねるように、何度か意識が遠のきかかりもし。耳元に置かれた電信の鋼の小箱が何やら騒いでいたの、すぐには気がつけずにいたほどで。

 「…よ〜し。別嬪のおっ母様、こたびは大変だったの。」

 いつの間にか揺れの止まった艇の上、間近から聞き慣れたお声がそんな冗談交じりのお言いようをなさったのへ、いやですよう、こんな時に…と胸の裡でだけ反駁を返したのを最後に。さしもの気丈な槍使い殿もとうとう意識が遠のいてしまったのでありました。









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  *あうあう、今日のところは此処までということで。(焦)

めるふぉvv めるふぉ 置きましたvv **

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